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伊奈大島城と武田の狼煙リレー

自宅から最も近い城址は、村内にある大草城である(自宅から1.5kmくらい)。
その歴史は南北朝時代にまで遡ることができるが、戦国期の武田、織田の支配時代の記録に出てくることはまずないので、南北朝の頃の歴史に疎い自分には今ひとつピンとこない。

現在は大草城址公園となっていて、ちょっとした桜の名所にもなっている。
快適な憩いの場としての公園化ということでは成功しているといえるのかもしれないが、城址の保存という観点ではちょっと残念な結果となっている。
北ノ曲輪を壊して駐車場にしていたり、本曲輪の周囲を削り、その削った土で三本の堀を埋めてしまっていたり・・・といった具合だ。
大草城址によらず、このあたりの線の引き方は微妙であり(場合によっては利権が絡んだりもして)、いろいろ難しそうである。残っているだけまだマシなのかもしれない・・・。

大草城の次に近いのが、自宅から6kmほど南にある伊奈大島城(台城)。
こちらは武田、織田の支配時代の記録に登場し、武田や徳川を描いた歴史小説にも出てくる。そういった意味から、自分にとってよりリアリティーのある城だ。

甲州の武田家というのは、信玄在世の頃、その最盛期の版図が百二十五万石ほど。
本国の甲斐のほかに信濃、駿河、遠江の北部(今川領は義元の死後、家康と信玄によって分割され、遠江は徳川領に、駿河は武田領になった)、三河の東部、上州の西部、飛騨の北部、越中の南部にわたった大帝国である。
(とはいえ、信玄のような天才をもってしても領地がある意味この程度でしかなかったのは、小田原に老大国ともいうべき北条氏、越後に上杉謙信という大勢力がいて、互いに牽制しあって身動きが容易でなかったためだ。)

信玄がようやく西上を開始したのは彼が五十を過ぎてからであったが、西上をはじめてすぐ、世に言う三方ヶ原の戦いにおいて、大勝利を収めながら陣中で病没(徳川方は潰走し、その途上、家康が恐怖のあまり馬上で脱糞したのは有名な話)。
武田家は勝頼が後を継いだが、信玄と違い内政、外政の才を欠いたため一族、老臣たちの心が離れ、家勢が衰えてゆく。
長篠で織田・徳川の連合軍に敗れてのち数年後、織田・徳川・北条の三者同盟軍により攻め滅ぼされるに至る。

武田攻めが開始されたのは天正十年。既に信長は勝頼の力を大いに見くびっていて、自身は出陣せず、総大将は長男の信忠。
このとき関東口から攻め入ったのが北条氏政で、駿河口より攻め入ったのが家康。織田本軍は飛騨口と信州伊奈口の二手に分かれ、主力を率いた信忠は信州伊奈口から入った。

実はこのとき既に、信玄がつくった武田帝国というのは、その内実が腐りきってしまっていたらしい。
ことごとく織田方に内通したり、降参したり・・・まるで無人の野をゆくがごとく。
織田主力軍は岐阜城を経って七日目には、勝頼の弟が守る信州高遠城を陥落させるという迅速っぷり。

伊奈大島城もこのとき(一瞬ではあるが)歴史の表舞台に登場する。
伊奈口に対する武田方の前線司令官は、信玄の弟で、勝頼にとっては叔父にあたる武田逍遥軒(信綱)。
逍遥軒は裏切らなかったが、しかし逃げた・・・。
彼が死守すべき城であったのが、伊奈大島城。が、織田軍が現れるや戦わずに逃げ、諸所を転々としたのち織田方に見つけ出されて斬られた。
結局、武田家の一門のうち織田方に対して死力を尽くして戦ったのは、高遠城を守って奮戦した仁科信盛(勝頼の弟)だけということに。
高遠城が陥落すると、織田軍にとってあとは甲府までただひた押しに進むだけとなった。

ちなみに、武田の痕跡を微塵も残すな、というのが変わらぬ信長のやり方で、諏訪大社もこのときことごとく焼かれた(勝頼の生母の実家が諏訪氏)。武田一族の者は女こどもに至るまで見つけ次第に殺されたとされる。
駿河口から入った徳川軍のほうは、そのようなことはなかった。甲州人に寛大であった。
家康は信玄を尊敬していた節があり、武田滅亡後に武田家の浪人を大量に召しかかえた。こうして「武田の赤備え」は、「井伊の赤備え」へと継承される。

・・・そんな歴史をもつ伊奈大島城。
何度か訪れたことがあるのだけれど、久しぶりに晴れた土曜日(9月5日)、朝の散歩がてら自転車で再訪してみた。
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天竜川に沿って6kmほど南下したところに城山がある。
城址は現在台城公園となっており、入口はここから1kmほど坂を上った山の上にある。

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公園の駐車場にある案内板。
それを言うなら「綱張り」ではなく「縄張り」であろうに・・・どうしてこんなところでこんな間違いをするのか、まったくわからない。

公園内の曲輪は現在マレットゴルフ場となっているが(よくありがち)、武田流築城法による馬出や三日月掘、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空掘が当時のままに残されている。
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(左)マレットゴルフに使われている二ノ丸と、(右)その二ノ丸を取り巻く空堀

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(左)やはりマレットゴルフに使われている本丸と、(右)本丸からの北側の眺め(奥に見えるのが陣馬形山)

時間は9:00前だったのだが、この日はいつもと違って駐車場に車が何台もあり、本丸にも人がたくさんいた。
こんなに人が来ることもあるんだな、と本丸をぶらぶらしていると、「名前を書いてください」と一人のおっちゃんに声をかけられた。
言われるがままに名前を書くと、「狼煙体験」と書かれた冊子を手渡してくれた。
狼煙体験・・・おぼろに冊子を眺めてピンときた。ちょうどこの日は狼煙リレーの日だったのだ。
どうやら自分は狼煙上げのボランティアと勘違いされたようだ・・・。

これまで見たことはないけど、武田の狼煙リレーというものが伊那谷で行われていることは知っていた。このとき、我が村の陣馬形山の山頂でも狼煙が上げられる。
武田の領内では各地に狼煙台を設け、緊急時の情報伝達に使っていたと言われる。伊那谷においては、天竜川の流域地帯が比較的見通しが利くため、既存の城で上げたり、見通しのよい山頂や峠に設けた狼煙台で上げたりしていたらしい。
それを再現すべく、上伊那と下伊那の二十近くの市町村、地区が参加して、年に一度狼煙リレーが行われている。

もらった冊子によると、10:00頃から狼煙が上がる。
阿智の蛇峠山を皮切りに、泰阜~下條~飯田~喬木~豊丘~高森~松川~中川~飯島~伊那~箕輪とリレーしていく。
伊那や飯田では複数の場所で上げ、松川はここ伊奈大島城、そして中川は陣馬形山の山頂で上げられる。

冊子によれば、諏訪市は後日となっている(笑)。
肝心なところがつながっていないではないか・・・と思わなくもないが、おそらくこれは上伊那と下伊那のイベントで、諏訪は別の地域となるため連携がうまくいかなかったのではないかと想像する。

伊奈大島城で狼煙が上がるのは10:20。まだ一時間以上もある。
狼煙を上げるところを見てみたい気もしたが、久しぶりの晴れ間、家でやらねばならぬことがたくさんあるため、いったん帰ることにした。時間になったら、陣馬形山で上がる狼煙を家の近くから眺めてみるつもり。

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そして狼煙の上がる時間。奥に見えるのが陣馬形山。
稲穂がいい感じになっている。蕎麦の花も満開。ちなみに、蕎麦の花というのはウ○コ臭いのをご存知だろうか・・・。

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アップで。狼煙は思った以上にショボイ・・・。
この日は一部に雲が出ていて見にくいということもあったのだが、それにしてもショボイ。
これならそこかしこでよく見る野焼きの煙のほうがよっぽど目立つのではないか・・・と思ってしまった。
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