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冬の野宿遍路 28日目 宇和島市街を抜けて宇和へ

2016/2/22 月
曇り時どき晴れ、夜雨、朝1℃ (温度計の精度不良により4℃程度低く見積もっている可能性あり 2017/12/27追記)
始:7:05 ~ 終:17:20 歩行:30km
(石丸公園)0705 ~ 0830(宇和島城)0900 ~ 1100(光満) ~ 1200(務田) ~ 1230(41番龍光寺) ~ 1330(42番仏木寺) ~ (歯長トンネル) ~ (歯長地蔵) ~ 1720(宇和高校前公園)

なかなか快適なテン場だった。
コーヒーとパンを食べて7:05発。
一路、宇和島市街へ。

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コスモスの前を通過

8:30に宇和島城に着いた。
天守の前まで登り、休憩がてら城を眺める。

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宇和島城は、宇和島藩藩主の居城。
もともとは藤堂高虎が創建した望楼型の天守を、宇和島伊達家二代藩主・宗利が、寛文年間の大改修の際に層塔型に新造したものが現在の天守。現存十二天守のうちのひとつ。

宇和島藩は伊達秀宗を藩祖とする、仙台伊達家の支家である。
大坂冬の陣の功績として、将軍家(徳川秀忠)から直々に幕府直轄領であった宇和郡10万石を与えられたため、宇和島伊達家は仙台伊達家の分家ではなく、総家と支家という関係。

ちなみに、伊達秀宗は政宗の長子で、「秀」の字はもちろん秀吉の一字を拝領したもの(秀宗は豊臣家の人質として過ごしたのち、関ヶ原後に今度は徳川家の人質となっている)。
一方、仙台伊達家の家督を継いだのは政宗と正室愛姫の子である忠宗であるが、「忠」の字はもちろん秀忠の一字を拝領したものである。
このあたり、豊臣の世と徳川の世を巧みに乗り切った伊達家の容易ならぬ立場がうかがえる。

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本丸にある見事な切り株(左)と、本丸からの眺め(右)

宇和島は古い町で、市街地は道が狭いのだが車が多く、なかなか気持ちよく歩けない。
ようやく市街を脱して(市街地はそれほど大きくない)、光満川沿いに41番龍光寺(りゅうこうじ)へ向う。
三間のサークルKでカップ麺を食べ、待望のコーヒーを飲む。

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41番龍光寺・・・山門がなく拍子抜け。境内はガランとしていた。

42番仏木寺(ぶつもくじ)は龍光寺からすぐ、2.6kmの距離にある。
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42番仏木寺の山門

こちらには団体客のほか何組かの参拝者がいた。
納経所へ行き、いよいよ枚数が心もとなくなっていた納札を買い足した(200枚)。

仏木寺をあとにして43番札所へ向う。
明日は雨予報のため、今日のうちにできるだけ進んでおきたい。
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歯長峠の遍路道は通行止となっていて、仕方なく車道に出てトンネルを抜けた。
たぶん崖崩れか何かだろうから通行可能のように思えたが、行ってダメだったら面倒なので諦めた。

ちなみに・・・トンネルを抜けてしばらく歩いた先の歯長地蔵の休憩所で逆打ちのお遍路に会い、少々話をしたところ(珍しく野宿をしながら歩いている人だった)、歯長峠はもう去年からあの状態で、崖崩れのため通行止となっているが問題なく通れる、ということであった。

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歯長隧道

宇和の市街に入り、ドラッグストア(レディという四国のチェーン店)で行動食を買い足す。
買い出しのために途中から遍路道を外れて車道を歩いた。

買い出しのあとR56を少し歩くと高台にナイター用の照明が見えたので、これはしめたと行ってみる(毎度ながら、自分らにとって球場=テン場である)。
間近まで行ってみたら、できていれば間違いなく狙い通りの球場だったのだが、そこは目下建設中だった。惜しい!

諦めて他を当たろうと歩き始めたら、その建設中の球場のすぐ隣に小さな公園があった。
災い転じて福となす
球場まで来てみなければ、この公園は絶対にわからなかっただろう。

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トイレ近くの一番落ち着く場所に幕営。
公園の場所は、宇和高校の目の前の高台である。後ろに見えているのが宇和高校。

19:00頃から早くも雨が降り出した。
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