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松本城

はるばるポーランドから、友人のヤンが我が家に遊びに来た。
その折に、久しぶりに松本城へ行ってきた。二十数年ぶりの再訪になる・・・。

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伊那谷から松本へ行くには、権兵衛トンネルを抜けていったん木曽へ出、中仙道を北上するのが早い。
(写真は中仙道の奈良井宿)

現在、なんらかの形で天守閣が現存している城は全国に十二ある(十二しかない)。
もちろん、現存といっても創建当時の建物がそのまま残っているわけではないけれど・・・。

松本城はそんな現存十二天守のひとつで、かつ国宝に指定されている。
(国宝に指定されているのは、かつては国宝四城と呼ばれる四つの城であったが、今年の七月に松江城も指定されて五城となった。)

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松本城の天守が築造されたのは豊臣末期。激しい戦乱の世が去って平和な時代に築かれた、絵に描いたような平城である。
平城であるがゆえに規模は大きいが、実戦のことを第一に考えて築かれた山城とは明らかに違っていて、緊張感のようなものは微塵も感じられない。

ちなみに、築城したのは石川数正、康長父子。
石川氏というのは、徳川軍団の中でも譜代中の譜代。酒井、本多、大久保などと並ぶ三河系であり、遠州系である井伊などよりずっと古い。
その中で石川数正といえば、酒井忠次、本多平八郎忠勝とともに、家康の右腕といってもいい徳川家の将であったわけであるが、そんな数正がなぜ秀吉の元へ奔り、豊臣家の武将となったのか・・・。
このあたりの話は紆余曲折があっておもしろい。様々な説があるようである。
歴史小説でも時どき取り上げられ、司馬遼太郎でいえば「覇王の家」の中で触れられている。

さて、以前にも「備中松山城」のところで書いたけれど、現存する天守がなぜ十二しかないのかというと、もちろん壊してしまったから。

平和な江戸時代になると、幕府の一国一城令によって城の数は減ったが、それでも二百近くの城があったはずである。
江戸期を通じて災害により焼失、倒壊したもの、さらには幕末の動乱で焼失、倒壊した城もあるけれど、その多くは明治期になって打ち捨てられたもの。
先の戦争で焼失した城も中にはあるけれど、記録によるとその数は七城だけ(1940年代初頭までは二十城の天守が現存していたとされる)。
つまり、ほとんどの城というのは、明治期になってからの旧物破壊思想のもとで、自ずから壊してしまったということである。
国宝だ、世界遺産だ、と大騒ぎしている今の時代の感覚からするとちょっと考えにくいのだが、とにかくそういうことがあった。
明治期の近代化の陰にはそういう歴史もある。

松本城も例外ではなく、薪にされる寸前だった・・・。
今でこそ国宝になっている松本城であるが、明治期になって無人になると荒れ放題、荒れるにまかせて天守の屋根も傾いてしまったという。
その城を、薪にするため業者が落札したが、よくよく調べてみると、解体して得られる利益より解体費用のほうが高くつくことが判明、単なる偶然で解体を免れ現在に至った、という笑えない話がある。

経緯はどうであれ、松本城が現在までこうして残っているのは誠に幸いなことだが、現存十二天守だ、国宝だと、あまり威張れたものではないですね・・・。
市川量造や小林有也らの努力によってどうにか天守が保存された、ということを最後に挙げておきます。

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意図するところはわからないでもないが・・・城が築造された年代からして、このような具足姿ではなく、ちょんまげに裃姿で大小を帯びた侍のほうがこの場に似つかわしいのではないか、と思う。
ちなみに、ヤンは抜刀道をやっていて、太刀も脇差も実際に所有している。
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